上町台地城南史跡めぐり

9月11日(月) てんのうじ観光ボランティアガイド協議会  杉本國治様、島林様、山内啓子様の案内で

真田丸、織田作之助、医学専門教育学校と病院跡地を巡りました。

・地下鉄玉造駅集合

・三光神社

・真田山旧陸軍墓地

・善福寺

・心眼寺

・円珠庵

・楞厳寺

・大福寺

・蓮生寺

・上本町六丁目解散

 

〇 三光神社

創建は反正天皇時代(406~410)といわれています。350年ほど前、鎌八幡の隣に移りましたが、45年を経て宝永3年(1了06)再び今の地に戻りました。 神社の名も、姫山神社、宰相山神社と変わり、明治41年三光宮を合祀して、三光神社となりました。

大坂冬の陣で真田幸村がこの辺りに砦(真田丸)を築き、大坂城に通じるトンネルを作ったと伝えられ、その抜け穴が境内にあります。また采配を打ち振るう陣中指揮姿の幸村の銅像(昭和62年建立)も建てられています。

 

〇 片柱の鳥居

三光神社の御門として誇っていた大鳥居が第二次世界大戦の戦火を被り、片柱だけとなった。戦後、この鳥居の復興に際して、悲惨な戦争を二度と繰り返すことのないよう悠久平和と国家の安泰を祈願して残された。

 

〇 真田山旧陸軍墓地

西南・日清・日露戦争等の戦没者 約5100余の個人墓碑が整然と並び、納骨堂には、太平洋戦争などの戦死者の遺骨が、納められている旧陸軍墓地です。戦前80ケ所以上作られた日本各地の陸軍墓地の中でも最古の歴史(明治4年創設)を持ちます。墓碑は規則によって大きさや形が定められ、階級ごとに区画された区域に整然と立ち並んでいます。少数とはいえ、敵として戦い捕虜となってこの地で亡くなった日清戦争の清国兵4名、第一次世界大戦のドイツ兵2名の墓がAブロックにあります。一番古いのは明治3年に建てられた「下田織之」JCブロックの墓標です。

現在 墓地は国有地で、大阪市が管理をしています。最近の調査で、納骨堂の遺骨が約8200人だったことがわかり、その中には落語家桂文枝の父親の遺骨が含まれているとTVで放映されました。

 

〇 どんどろ大師(善福寺)

この付近は、大坂冬の陣・夏の陣の激戦地になりました。宝暦年問(1751~1764)に高野山岩本院法資法道が大坂の陣の戦死者の霊を弔うために鏡如庵大師堂として創建しました。

善福寺の本尊として祀られる弘法大師、どんどろは土井殿の訛ったもので、昔大坂城の城代 土井利位の邸宅が近くにあり、土井利位が弘法大師に深く帰依し、よ<参拝していたために「土井殿の大師」と呼ばれていました。「土井殿の大師」が転訛し、「どんどろ大師」になったといわれています。

近松半二作の浄瑠璃『傾城阿波鳴門『けいせいあわのなると』の舞台としても有名。

 

〇 心眼寺

元和8年(1622)白牟上人が大坂城出丸の跡地に、真田幸村父子の冥福を願って建立された寺です。寺の山号は「真田山」、定紋は真田の家絞「六文銭」です。門扉には六文銭が張り付けてあります。

六文銭は、死者が三途の川を渡る時の用意にとお棺に納める六道銭から転訛したもので、戦いにのぞむ武士の必死の覚悟を表しています。 幸村400回忌に際し、平成26年10月に「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が建立されました。

 

〇 まん直し地蔵

建立された心眼寺にまん直し地蔵がある。門扉には真田家の家紋である六文銭が飾られている。

円珠庵(鎌八幡)

江戸時代初期の国文学者契沖が、晩年の元禄3年(1690)に隠棲、古典の研究に親しんだところです。契沖(1640~1了01)は尼崎に生まれ、11才の時今里の妙法寺で出家、高野山で修業、各地を巡り教導しました。代表作「万葉代匠記」は万葉集を注釈したものです。

境内には「鎌八幡」という社があり、真田幸村が榎に鎌を打ち込んで戦勝祈願したところ大勝したと伝えられ、祈祷寺として、榎に鎌を打ち込むと願いがかなうと 今もお参りの人が多いです。

祈願は 悪縁を断ち、病根断ち(頭痛、せき、ぜんそく、癩、痔、等々諸病平癒)縁切、因縁断、悪霊断、厄払、悪運断、心眼成就、合格祈願、学業成就等

 

〇 楞厳寺

山門の左に、織田作之助の墓があります。背面には、藤揮桓夫文、吉村正一郎の片仮名まじりの書で、作之助の生涯が、簡潔に記されています、高津中学、三高に入学、昭和10年3月期末試験中喀血、白浜、小豆島で療養しながら、12月戯曲「朝」「モダンランプ」などを、同人雑誌「海風」に発表、11年三高中退、上京 13年スタンダールの「赤と黒」を読んで志を小説に変更、15年「夫婦善哉」を発表、改造社の文芸部は夫婦善哉を推薦作品に選び、大正生まれの昭和随一の作家と激賞、以来「立志伝」「我が町」「六白金星」と次々と発表して、流行作家となり、21年読売新聞に連載中の「土曜夫人」を過労の為 96回で中断、22年1月10日朝死去「ロマンヲ発見シタノ伝説的ナ一語ヲ残シテ世ヲ挙ゲテノ哀惜ノ裡二忽焉トシテ夭折シタ行年35才」と碑文は終わっています。

 

〇 大福寺

明治2年(1869)大阪府知事後藤象二郎は、本格的な大学のほか、病院建設を計画していたが、財政難のため実現できず、仮に設けた仮病院です。院長に洪庵の次男惟準、首席教授に蘭医ボードウインを据え、一般の治療と医師に対する新技術伝習の為開かれました。半年後鈴木町に移転、これが現代の大阪大学医学部の出発点です。

 

〇 浪華仮病院跡

明治新政府に本格的な医学専門教育学校と病院の建設を命ぜられた大阪府が、大福寺の境内に仮の病院を設立。明治2(1869)年、緒方惟準(緒方洪庵の次男を院長、オランダ人医師ボードウィンを主席教授として診療を開始した。

 

〇 蓮生寺

文禄元年(1592)創建、大阪冬の陣、夏の陣にて、焼失、延宝年間(1673~1681)復興 正徳4年台風で大破、享保年間(1716~1736)再興、戦災で焼失、昭和59年再々興

釈迦涅槃像は、江戸時代初期 青銅製重さ500kg。昔、正斎と云う念仏行者が、道頓堀の墓地に草庵を建て、この尊像を安置して、一千日念仏を行じたところ、諸人の帰依ことのほか厚く、群衆が集まり、その前に市が出来 千日念仏前と呼ぱれ、今日の千日前の基となりました.明治維新に神仏分離令が出て、神仏合祀が禁じられたので、当寺にお祀りしてあった金比羅宮を遷宮し、その跡へお迎えしました。香煙絶えることなく、病気あれば痛むところをなでて、信心祈願すれば悉く平癒すると云われています。戦災で此のお堂だけは焼失を免れました。